今回の記事は、プラスチックゴミのポイ捨てに関して、個人的に思うことを書きました。
この記事を書くきっかけになった理由は、花火大会後に無残に散らばるゴミの写真を見たからです。
最初に問題の写真を見た時に、当然のことながら怒りがこみあげてきました。海と共に生きているサーファーであれば、だれもが同じような感情を抱いたと思います。
- どうして持ち帰らないのか
- ゴミをポイ捨てする人はモラルがなさすぎ
こんな感情が、ふつふつと芽生えてきました。
この時に僕たちの怒りが向かっている方向は、『ゴミをポイ捨てした人』です。
- 捨てた人はばか
- モラルがない
- ゴミは持ち帰るもの
こんな気持ちがわいてきました。
そんな時にふと、スリランカでのサーフトリップでした会話を思い出したのです。
問題の原因はなにか
バリと同様に、スリランカの都心部の路肩や裏路地にはポイ捨てされたプラスチックゴミで溢れています。
自分自身が旅をしている間も、『どうしてポイ捨てをするのか』と、怒りにも似た感情を持ち続けていたのを覚えています。
そんなとき、旅先で出会った人たちと、道に散らばるプラスチックゴミの話になりました。
ほとんどの人が口を揃えて、『現地民のモラルがないのが原因だ』と結論づけていました。現地民が教育されていないのが原因だ。というひともいました。
この話を聞いて、みなさんはどう思いますか?悪いのは、ゴミを捨てている現地のひとたちですか?
個人的には、違和感を覚えました。
それは、怒りと原因の向かう先が、『ポイ捨てをしている現地民』であることにです。現地の人たちは、今まで『土に還るもの』が生活の基盤としてあったはずです。
そんな中、プラスチックという『便利なもの』と出会いました。生活はどんどん便利になっていきます。
その過程で、『海の海洋汚染になるからしっかりプラスチックは処理しなきゃ』という発想が生まれるでしょうか?
問題の根本的な原因は『間違えて作り出した便利な発明』
会話の中で、1人が反論するかのように、プラスチックという発明を現地に持ち込んだとき、モラルを一緒に持ってこなかったからだと答えていました。
- 悪いのは現地民ではなく、発明をただ【役に立つ】という理由だけで持ち込んだこと
持ち込んだひとも、使っている人も『海洋汚染の原因』ではないという内容でした。
何が言いたいのかというと、これらの問題は『再生不可能な分解できないプラスチック』が存在することで生じているということです。
根本的な原因は、『プラスチックが捨てた時に自然に還らないもの』だということなのです。
『分解不可能なプラスチック』を変えない限り、このポイ捨て問題の議論は永遠に解決しません。
最初に変えるべきなのは、根本である『分解不可能なプラスチック』であって、『捨てる人のモラル』ではないのです。
世界中の人たちに、『プラスチックをポイ捨てしないモラルを持ってください』というのは無理な話です。
そんなことに時間をかけていたら、その間に海がプラスチックで溢れかえってしまうことでしょう。
そもそも誰もが一度は、プラスチックをポイ捨てした経験があるはずです。
それはもしかしたら、『故意ではなかった』のかもしれません。
- 突風で買い物袋が吹き飛んでしまった
- フィンが折れて海に沈んでしまった
- 車の窓から不意に飛んで行ってしまった
故意ではなかったプラスチックのポイ捨ても、1億2千万人の人が一回ずつしたら、それは1億2千個の分解不可能なゴミになります。
目の前のプラスチックゴミはもしかしたら、あなたが小さい時に海でなくしてしまったおもちゃの破片かもしれないのです。
今回の一件で感じた怒りを、ただ単純に『モラルがない人たち』に向けては進展はありません。
変えるべきなのは『根本的な原因である再生不可能なプラスチック』であり、誰かの意識やモラルではないのです。
消費者の意識が変われば、『再生不可能なプラスチック』は必ず減っていきます。
それまではただひたすらに、目の前にあるプラスチックゴミを『一個人』が拾い続けるしかありません。
そして、その日まで『モラルのある行動と決定』を、一個人として繰り返し続ける以外にないのです。
他人のモラルは、そう簡単に変えられません。口で説明しただけで変わるほど、他人の意識は簡単にできていないのです。
その怒りやエネルギーは、『プラスチックを拾い続ける自分自身の行動』に変える必要があるのです。
『ゴミを拾う人の背中』を見続けた『他人』が、目の前にあるプラスチックを拾い上げたのだとしたら、それこそが本当の第一歩です。
それまではとにかく、目の前にあるゴミを拾い続けるしかないのです。
繰り返しますが、変えるべきなのは、モラルのない人の行動ではありません。
変えるべきなのは、間違えて発明したプラスチックという発明なのです。