サーフィンには、『ワル』の要素が少なからずあります。どこか反社会的で、他の人とは違う方向へ連れっててくれる、そんな魅力があるのです。
どういうこと?
それは、学生時代にバイクを乗り回す感覚に似ています。まるでオリの中にいる感覚だった、学生時代を思い出してみてください。
自由や、希望を求めて、みなぎるエネルギーを発散する場所を探していたはずです。
僕自身が手にしたのは、バイクでした。たいした『ワル』でもないのにいきがって、格好つけて、16歳からバイクに乗っていたのです。
それとサーフィンにどういう関係が?
それと同じように、サーフィンには『自由』や『反抗』を表現できる魅力があります。
サーフボードを手にして自由を求めるのは、まさに『ワルのロマン』そのものだったのです。
サーフィンは爆発寸前の反抗心をぶつけられる場所
- 社会に対する反骨心
そこに、『サーフィンのカルチャー』があるのではないでしょうか?
簡単に説明して
スケートボードのカルチャーも、それに似ています。ティーンネイジャーの爆発するような社会に対する反抗心が、『スケートボードのカルチャー』を作り出しているのです。
他には?
人によってはそれがファッションであったり、ダンスのひともいるかもしれません。10代の頃は誰もが、無我夢中でなにかを探し、爆発寸前のエネルギーをぶつけるものです。
サーフィンも、まさにそうです。サーファーたちは、自分自身を爆発させる場所が『波の上』だったのです。
企業によって変えられるサーフィンのイメージ
- 海に癒される
- サーフィンはスポーツ
- ビーチライフ満喫
- ポジティブなイメージ
このようなサーフィンのイメージができたのは、最近のことなはずです。
どうしてそうなったの?
結局のところ、アンダーグランドなイメージのサーフィンを、複数の企業が利益のために、『日の当たる場所』へ引っ張り出してきただけなのではないでしょうか?
それは良くないことなの?
もちろん、それ自体悪いことではありません。どんな形であっても、サーフィンを楽しむ権利は誰もが持っているからです。
ただ、それにどこか違和感を感じる人もいるはずです。
オリンピック競技化に反対したり、強烈なローカル色があるサーファーたちは、その流れに反抗しているのではないでしょうか。
どうしてそうなってしまうの?
自分と住む世界がまったく別の異質な人たちが、自分たちの縄張りを荒らしていく。
自分たちでは太刀打ちできない強烈な力が、他の人たちを動かしている。
そうやって誰かに、サーフィンのカルチャーが変えられてしまうのが怖いのかもしれません。
フリーサーフィンは反抗心が生み出したカルチャー
想像してみてください。
スケートボードやサーフィンが、『学校の授業』になったときのことを。あるのは、サーフィンの授業だけで、英語も国語の授業もありません。
波乗りが当たり前になってしまう。
全員がサーフボードを持ち、どのようにしたらいい点数が取れるか、授業で教えられる世界です。ウェーブプールで、毎日同じ練習を繰り返しさせられ、サーフィンをやるように強制されるのです。
そんなサーフィンやスケートには、『反抗』や『自由』を表現する場所はもうありません。
誰かに採点されて、評価されてしまう世界になってしまう
そんなふうに自由が奪われてしまった世界では、もう夢を見ることができないのです。
そうなったら、サーフィンを止めることが、『唯一の反抗』になってしまうことでしょう。
学校に対する反骨心に満ち溢れる生徒たちは、下らないサーフィンやスケートの授業を抜け出すようになります。授業をさぼって、『科学の本や英語の勉強』に明け暮れることでしょう。
それが、僕たちサーファーの持つ、『反骨心』です。ただた だ単純に、『あまのじゃく』なのです。
まとめ
みんなと違う形のサーフボードを探したり、競技サーフィンから遠ざかるのは、『あまのじゃくな不良』でいるための手段なのかもしれません。
僕自身は、それが当てはまります。きっと、そういうことなのです。
誰もが一度は、『不良』であることに憧れたことがあるはずです。髪の毛を染めたり、バイクに乗ったり、ケンカをしたり、学生時代の思い出が蘇ってくるのではないでしょうか?
あなたにとっての、サーフィンの魅力とはなんでしょうか?
社会に対する反抗ですか?
それとも、『みんなと同じこと』がしたいからですか?